折々の記 83

文化財の中で働く人々


  松山城のお堀のすぐ横には、議事堂や県庁本館、第一別館といった県の建物が並んでいます。これらは一番町の大通りに面して建てられていて、裏手はお城山の崖に接しています。


        堀の内からみた県庁本館と別館(右手の白い11階建て)

  このうち県庁の本館は、4階建ての石造りの建物で昭和4年に建てられています。建物は左右が対称になっていて、中央の上部には青緑色のドームがついています。

  この大正時代を思わせる重厚な近代洋風建築は、お城山の中腹にある萬翠荘(ばんすいそう)とならんで国の文化財になっています。

  本館の正面玄関には御影石(みかげいし)張りの車寄せがあり、そこを入ると花崗岩でできた広い階段が二階へと伸びています。

  守衛室を右手にみながら石段をのぼっていくと、正面玄関ロビーがひろがっていて、床には黒白模様の大理石が敷かれ、三階へ通じる白い大理石の階段には赤い絨毯(じゅうたん)が敷かれています。

  三階と四階の廊下には赤い絨毯が敷かれ、窓や壁、天井などには優美な彫刻がほどこされています。
  さらに、三階の貴賓室(きひんしつ)に備えつけられたルネッサンス調の暖炉やシャンデリアは大正ロマンの香りを漂わせています。

  どうみても、全国の県庁舎のなかではかなり古い部類に入るでしょう。とくに石造りの重厚な建物だけに、外から来た人にはある種の威厳のようなものを感じさせるかもしれません。


  春雨にけぶる城山の松山城本丸と県庁本館 オレンジ色は市内電車

  その3階の古めかしい一室で採用の辞令をもらった日のことを今でも覚えています。

  保健師や水産、蚕業などの技術職は6月1日の採用でした。
およそ40人ほどの新採たちが人事課の職員らに引率されて狭く薄暗い部屋で待っていると、お供をひきつれた副知事が大股で入ってきて、一瞥(いちべつ)するなり『ここに儀礼をわきまえない奴がおる。県職員としては失格である。出ていけ!』 と怒り出したのです。

  その人物が指さす方をみると、一人背広を着ていない背の高い新採君が何食わぬ顔で立っていました。たしか京都の大学から来た同じ職種の人間でした。

  一瞬、部屋中が凍りつき、『どこの所属のものか!』 と鋭い叱責が続きます。
  すると引率してきた職員が慌てて自分の服を脱いでその新採君に着用させてなんとかその場はおさまりましたが、しばらくは職員としての心構えをくどくど説教されたように記憶しています。

  副知事のような偉い人があんなに人前で怒るとは、と驚きましたが、戦地帰りの兵隊や特攻の生き残りが県にも多くいたので、少々荒っぽいところはありました。

  あとで背広を渡した職員は『びっくりしたなー。気がつかずに悪かったなあ。』と新採君に話していました。

  当の御本人は『背広を着て来ようかどうしょうか考えたのですがね。まあいいかと思ったのですよ。』と平気なものです。
  話からすると、この二人は大阪出身で大学の先輩後輩にあたるらしく、大阪から来るような人たちはこんなことくらいでは驚かないようでした。

  それにしても、威厳を感じさせる建物とそこで働く人たちの厳しい態度には驚かされました。まさかこの時は、ここで30年近くも働くことになろうとは夢にも思いませんでした。

  この本館は知事や副知事、秘書課、財政課、人事課といった県政の中枢を担う人たちの部屋で占められています。

  私がいた別館からこの建物へ呼ばれた時には、ひんやりとした空気と薄暗さの中でいつも気をひきしめながらやってきたものです。

  というのも本館では 『絨毯(じゅうたん)を踏まないこと』、『私語はつつしむこと』 『むやみに音をたてないこと』などの規律が徹底されていたのです。

  権威ある建物における暗黙のルールのようなものでした。

  考えてみれば、みんなが絨毯を踏んで歩けば痛みが早くなって絶えず取り替えねばなりません。

  それに建物が石づくりなので廊下で話すと声は反響して部屋の中まで聞こえてしまいます。

  ある部屋では十人ほどが仕事をしているのに、鉛筆の転がる音が聞こえるほど静謐(せいひつ)さが保たれていました。
  
  文化財を仕事場として使ううえで、働く人たちも建物の権威を損なわないように立ち居振る舞いには気をつけていたのです。ある意味、人も建物の一部として文化的価値を共有していたのかもしれません。

  ですから、あの辞令交付式での副知事は、暗黙のルールが守られていないことに平然としている人事課や引率の職員を叱ったものと思われます。

  これに対して私が居た別館は11階建ての新しい建物なので、部屋に陽がよく入って明るいうえに、電話や来客との会話、打ち合わせや議論などが活発におこなわれていたので喧騒に包まれていました。

  声の大きな職員がいると、こちらの電話の声が聞きとれずに、手振りで注意することもしばしばでした。それでも、活気があってオープンで性に合っていたように思います。

  人の性格が建物によって影響を受けるとしたら、文化財が仕事場でなくてよかったとしみじみ思うのです。


       三ノ丸跡の堀の内にある土塁(右手)とお濠(左手) 南堀端


              西堀端の土塁(左手)とお濠(右手)