今月のフォト 9 月 
折々の記 100 続・墓じまいの悩み 
折々の記 101 続々・お米の話し

折々の記 102 土入れから始まりました

折々の記 103 森羅万象に神宿る
世の中にはいろいろな宗教観をもった人たちがいます。
その点、私は特に何かを信仰したりすることはありませんが、神社に行けばお賽銭をあげて二礼二拍手一礼くらいはするし、お寺にいけば南無妙法蓮華軽や南無阿弥陀仏をとなえたりもします。
また、わが家の宗旨は神道ですが、神道といっても鹿児島の神道です。明治維新のときに藩主の島津久光公が仏教を廃止すると決めたため、これに従っただけです。殿様の右向け右にならったわけで、勤王なら神道であり佐幕なら仏教という乱暴な理屈でした。
ですから宗旨というほどのものではありません。お正月には神社に初詣でをし、休みの日は京や奈良のお寺を巡り、結婚式は神道であげるといった、よくあるパターンに不思議さはありませんでした。
そして多くの人はこれと似たようなものだと思ってたのですが、昔からの知り合いに少し変わった女性がいます。
この人は亡くなった人と夢の中で会って話しをすることができるうえ、いわゆる霊の存在を感じることがあるというのです。
先日も手術で入院したとき、病室の鏡の前で髪をとかしていたら急に霊が近寄ってきたというのです。
視覚的に姿が見えるわけではないらしく、気配でそれが男か女か、若いのか年配なのか、髪型や背格好、服装までわかるらしい。さらにはそれが危害を加える類のものかもわかるといいます。
それゆえ、ご本人は古いホテルや旅館に泊まるのが怖いといいます。
また、古刹のたぐいや深山幽谷にある社なとを訪ねるのも拒否します。『悪いものが潜んでいる』と言ったきり、足が前に進まなくなるのです。
もし悪い霊に憑依されたら自分の力で除けないから、というのです。
また、眠っているうちに見る夢には色彩があり、手でさわった感触さえも残っているといいます。
三途の川を船でわたって亡くなった私の父親に会った時には、父親が背中に石を載せて腰を曲げながら歩いていたというのです。
その話を伝え聞いた母親はすぐに墓地に飛んでいき、榊を差し入れる石穴につめこんでいた小石をとり除いたと電話してきました。そうした話はいくつもありました。
そんな彼女がここ数年、日課にしているのが、毎夕の海岸でのゴミ拾いです。
瓶やガラスの破片のほかぺットボトルや空き缶などが川を下って海岸に流れ着きます。
それらを日課のように捨てる人がいることから、拾っても拾ってもきりがありません。
捨てる人を捕まえてやめさせない限り終わらないと言うのですが、 『見つかればおそらく他の川に捨てに行くにちがいないでしょ。それなら自分がいるこの海岸で拾ったほうがいいから』と。
それに『拾える量は限られるけど、わずかでも拾えばその分だけでもきれいになるからね』。
そして、拾いおわると必ず『海の神様、空の神様、風の神様、ありがとう』と感謝の気持ちを口にして家路につくのです。
まさに自然の森羅万象に神が宿るという、日本古来の神道の原型でアミニズムを見る思いです。戦後は廃れましたが古き日本にはこうした自然に対する畏れや敬いが息づいていたように思います。
彼女の人生においてはこうした世界観になじむ機会はなかったはずですが、無垢に八百万の神の存在を信じられるのは自身に霊的な感覚が備わっているためかもしれません。
翻って私にはその手の能力はカケラほどもなく、それに霊とか霊魂がいる感覚はありません。それに神様や仏様はお願いをするために人が作り出したものだと思っています。
それでも、自然の中で生きていくには自然の摂理に従わざるを得ず、謙虚な心で接することが一生物としての最低の礼儀だと思うのです。
それゆえに、毎夕の海岸清掃には腰が痛いといいながらも彼女とともに参加しています。