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                  蚕と絹のあれこれ50 伊豫蚕業沿革史その1

 この本は大正十五年に村上是哉という人が愛媛県における蚕糸業の黎明期について記した書物です。

 彼は伊豫(愛媛県)の県令(県知事)になった藤村紫朗の求めに応じて明治二十一年に山梨県の職員を辞して帰郷し、愛媛の蚕糸業の発展に尽力しました。
 そして晩年になって明治元年から大正五年までの県内における蚕糸業について書き残しています。

 今ではこの書物の存在すら忘れられているうえ文語調で書かれ旧字も多いため、現代文に意訳して順次、興味ある方々の閲覧に供したいと思います。
 正本は四百三十四頁ありますが、資料を除く二百四十八頁について掲載していきます。

 ちなみに、愛媛県ではわずかですが大洲市と西予市に養蚕農家がいて、西予市野村にはシルク博物館がありそこでは多条繰糸機で伊予生糸を生産しています。国や県が関わりをやめてからも民の力で続けられているのは、明治に蚕糸業を興そうとした旧士族たちのように民の力の強さなのかもしれません。

注) 藤村史朗は長く山梨県令を長くつとめて殖産興業に多大な功績を残し、そのときの部下が村上是哉でした。藤村はつぎに伊豫県令へ就任するにあり、伊豫出身の村上是哉の帰郷をうながし愛媛の蚕業振興を依頼しています

〇明治元年
 維新による干戈がようやく収まり郡県の制度が確立するとともに七百年来の士族の常職が解かれたために宇和島藩伊達氏、吉田藩伊達氏、大洲藩加藤氏、新谷藩加藤氏、松山藩久松氏、今治藩久松氏、小松藩一柳氏,西条藩松平氏の伊豫八藩における士族たちは競って前途の活路を探し始め、蚕種・生糸を海外に輸出して利益の多いことを聞き、それに関わろうと考えました。

注) 松山藩を除いて伊予の各藩は戊辰戦争に従軍して養蚕が盛んな東北各地を転戦して、蚕糸業が有利な産業であることを知りました。

〇明治二年
 かつては幕府禁令を遵守して蚕業を厳禁した今治藩でも物産方において蚕業教師を招聘して養蚕技術を奨励するに至っています。
 
 当時、物産方は今治常盤町にあり、真鍋氏を教師として招き藩士の桧垣氏らに師事させて、鈍川や鴨部村の山桑をとって蚕の飼育をはじめましたが、その規模ははなはだ小さいものでした。そしてまもなく藩が廃止されたため事業は桧垣氏らに移されました。

〇明治三年
 宇和島藩の物産方では春に養蚕、製糸、機織りの教師を招聘して藩士に伝習させています。教師は滋賀県の人で老練者二名と工女三名からなり、八幡村の生産場においてこれを始め、飼料の桑葉は日振島で採取しました。製糸は手挽座繰により、機織機は縮緬の類いでありました。

 藩士であった小川信賢氏は主に養蚕の技術を習い、同氏の次女である小川安子氏らは専ら製糸の技術を習得しています。ところが翌年に廃藩置県の令がでて、こうした藩営の事業は廃止のやむなきに至ります。

 小川信賢氏は宇和島藩士として文政八年に北宇和郡宇和島町に生まれています。家は藩祖である伊達秀宗公以来、代々伊達家に仕えてきました。

 明治三年に藩が養蚕や製糸業を奨励するにあたって氏は率先してこれに従事し、技術を身につけてからは東奔西走して専らこれらの技術を人々に教えて勧誘に努め、それに賛同するものは頗る多かったといいます。

 さらに蚕業の目的を完遂するためには機織りが重要と考え、明治七年には長男の信理氏(当時二十八才)および将来有望な青年の水原益雄氏(二十歳)、門田顕敏氏(十五才)の三名を群馬県相生町の澤吉右衛門氏のもとに派遣して撚糸、色染め、機織りの技を学ばせています。

 氏は明治二十九年六月五日に没して宇和島町外龍華山等覚院に葬られ、墓は宇和島藩祖秀宗公の廟所入り口の黒門に向かって右側に西面してあります。行年七十二才でしたが、その見識はまさに業界における先導者と言って間違いありません。
 
 娘の小川(清家)安子は元治元年の生まれ。明治三年、父信賢氏に従って宇和島の生産場に入り手挽製糸の技を習い、明治十二年には松山立花の製糸伝習所に入って機械製糸の技を修め、以後父に従って諸方の招きに応じて繰糸の技術を教えています。

 その後、北宇和郡八幡村大字大浦の酒造家である清家氏に嫁ぎ、今は同家の未亡人として裁縫の教師をしていました。

 大正四年に同刀自(52才)を訪問したときの印象は、性温順にして端正かつ言語明瞭で礼節に適い、愛情面に溢れていました。親しく訪問して父君のことを訪ねたときには位牌を示して『生きていますればさぞ歓ぶでござりましょう』と話されていました。

 この年、大洲藩においても桑苗数万本を購入してこれを士族に与えそれぞれの邸内または路傍に植えさせて、順次育蚕の技術を学ぶ道を開こうとしています。

 それを指揮したのは大洲藩の山本尚徳氏という人物でした。氏は藩内の物頭という重臣の家に生まれています(文政八年)。  時勢を見るのに敏く、つとに尊王の大義をとなえ元治・慶応の際には藩論と合わずに一時貶められて喜多郡河辺村大字植松の辺境に蟄居させられています。

 しかしその間に密かに防長の間を往来して木戸や高杉らの志士と深く交わり活発に尊王攘夷の活動に従事していました。そしてほどなく時勢の変遷により、藩公は山本を召しだし要路に用いたため、維新後は藩の大参事となって藩政を総理しています。

 氏は殖産興業に経綸が深く、とくに蚕業は将来有利な産業になると達観し、かつ当時は士族の授産が急務となっていたため明治三年にまず桑苗数万本をあがない無償でこれを配布して荒廃不要の土地もしくは路傍、庭先に植えさせています。

 一方、自宅においては家族に率先して育蚕に従事させ、一般の藩士に対しても逐次養蚕法を練習させる道を開こうとしました。
 ところが政務上固陋な領民による騒動を招いたことから明治四年八月十六日に責を一身におって自裁してしまい、諸般の計画は半ばにして潰えました。氏は神式をもって大洲壽永寺山の奥城に葬られ、享年四十六才でした。
 
注) 自裁の理由は幕末に長崎へ鉄砲を買いつけに行った際、鉄砲ではなく汽船のいろは丸を購入したうえ、それを土佐の坂本龍馬に貸付けたところ紀州の藩船と衝突して沈没してしまい、のちにその責任を問われたためとも言われています。

〇明治四年
 新居郡西條藩士の信藤 潮 氏(諱は重個)は信州に遊学して蚕糸の法を学んで帰郷し、近郷の集落に声をかけて桑を植えることを勧め、育蚕の技術を教えて蚕業の奨励を始めていますが、この頃はその機運が熟していませんでした。

 というのも、この年の正月十八日に西條近辺の幕府領が備中倉敷藩に併合され、さらに七月十四日には廃藩置県の令によって伊豫国内に八県が置かれます。

 さらに旧藩主(藩知事)は上京を命じられ、倉敷県に移管された幕府領は松山県に移されます。
 そして十一月十五日には県内が松山県と宇和島県に集約され、松山県は参事の本山茂任氏を長官に任じ、宇和島県は権令の間島冬道氏が統治することになりました。

 こうした大変革によって人々は前途に不安をいだき、種々の妄言蜚語や風説に惑わされ竹鎗や筵旗をたてて藩主の上京を阻止したりするなど騒動が頻発しました。

 一方、施政者は藩有財産の処分や事務引継ぎの準備などに日夜忙殺され寝食もままならず、蚕業の奨励事業もまた顧みられることもなく、多くは端緒につかずに廃絶に終ってしまいました。

〇明治五年
 二月に松山県は石鉄県に改称され、六月には宇和島県が神山県に改称されます。

 この年の春に松山市の豪商である藤岡勘左衛門と仲田傳之〇氏らが石鉄県の勧誘に応じて市街の近傍(温泉郡立花字上佐古)に桑園一町三反歩を設けたほか、松山藩士 白石孝之氏ら(岸重崔、菅谷清敬、由井清、東修、新海、吉野、清水、村井の八氏)は養蚕技術の修業が必要と考え自ら京阪地方におもむいてその方法を修めています。

 白石氏は大阪府に住む佐貝義胤氏(上州前橋の人)の門に入り岸その他七名は京都市の浅田豹作氏に就いて修業しました。

 浅田氏は投機的な人物であって自ら業を行うのではなく、京都市二条に養蚕場を設けて上州より教師を招いて輸出用の蚕種の製造を行っていました。

 八氏は帰郷後に松山養蚕会社を設立して養蚕と蚕種業の取り組みを始めますが、岸氏ら七名はもともと蚕種製造を目的としていたため、その後まもなく輸出用の蚕種製造が衰運に傾いたために数年を経ずして廃業しています。

 白石氏は天保七年に松山市一万町で生まれ家は代々久松家につかえる士分でした。佐貝氏に師事して蚕糸の技を修めると帰郷して桑を植えて蚕を飼いはじめ、養蚕業の振興を図るために努力を続けています。

 明治十年には勧業奨励によって機械製糸が有望であることを知ると大洲藩の福井茂平、大橋 有氏等とともに両藩の子女十一名(松山藩四名、大洲藩七名)を備中笠岡にある製糸場に託して機械繰糸の技術を伝習させているほか、翌年には松山市外の立花橋畔に製糸工場を設け、十二年からは各郡より子女を募って機械製糸の技術を教えはじめています。

 また、明治十一年には松山市の城山において、また十三年には琴平神社で開かれた博覧会において機械繰糸の展示を行っています。県の施設または保護によるものとはいえその企画監督にかかわり蚕糸業の進歩発展に資する功績は大きいものがありました。

 さらに明治十三年の春には三好豊保らと蚕業団体を組織して県から派遣された養蚕教師の小倉氏に就いて技術をさらに磨き、前途に希望を抱いていました。

 しかし岩村県令が内務省に栄転後、県では方針を変えたことから従来は細々ながら蚕糸業に保護や奨励が行われたものがこの年限りで立ち消えになってしまいます。

 そして明治十四年からは専ら柞蚕の奨励に移ったために、これまで補助保護のもとに育成されていまだ独立の域に達していなかった蚕業はにわかに衰退の様相を呈し、多くの人は他の産業に転身してしまいました。

 でも白石氏は一人不撓不屈の精神で経営努力を続け、明治十八年ころは西讃や東予地方を巡回して蚕業の有益なることを熱心に説いて、賛同して新たに始める者も出だしました。

 でも機運はいまだ熟さず、とくに伊豫、温泉南部の米作と松山市街の繁栄は氏の事業の前途に横たわってその進歩をさまたげていました。それに多年経営に刻苦しながら続けてきた事業も不幸にして利益をあげることができず、家財は年々消耗してほとんど残りませんでした。

 私が本県にもどり松山養蚕伝習所に勤務しているときに度々氏を訪ねて交誼を得た当時は、それでも蚕種の取次斡旋業を営んで蚕業の便益を図っておられ、不如意の中にあっても蚕業から離れずこの発展を祈っておられることにいたく感服したものです。

 氏は闊達にして謙遜の人で私のような若輩の後進者に対してもいささかも驕慢さもなく礼厚く奥ゆかしい大人でした。
 明治三十一年十月十五日に亡くなり享年六十三才でした。温泉郡道後村字鶯谷の山越不退寺に葬られ、戒名は孝安義豊信士です。