蚕と絹のあれこれ 1

 天照大神によるご親蚕


            12粒の繭
   古事記において天照大神(あまてらすおおみかみ)は繭を口にふくんで糸をひいたと書かれています。通常、繭は煮てから40°のお湯にいれて糸を繰りますが、それを口の中でほぐして繰ったというのです。繭は蚕の出す糸が何層にも重なってできています。糸はフィブロインという絹の繊維がセリシンという糊成分におおわれて蚕の口から出されるので繭の糸と糸とは接着されています。その糊を溶かすには一度煮る必要があるのです。でも繭を口に入れて長く唾液で湿らしていると、少しづつ糸はほぐれます。ただ、口に入いる繭の数は2 粒が限度でしょう。一本の生糸をつくるには少なくとも5粒以上の繭糸を撚らなくてはならないので、昔の繭が小さかったとしても無理だと思います。

        蚕が糸を吐きながら繭を作っているところ
   中国には、『紀元前2690年に黄帝の王妃 '西陵' があやまって湯の中に繭を落とし、箸で拾い上げようとしたら純白の糸がとれた』という伝承があり、これが生糸づくりの始まりとされています。
   古代中国では、皇帝の后(きさき)が蚕を飼って糸を繰る(くる)「御親蚕(ごしんさん)」を行っていたと言われます。記録によれば、后は繭の入った盆に三度手を触れたのち、婦人達のうちで吉なる者を選んで糸繰りをさせたといいます。三度手を触れるという所作は、湯で煮た繭の糸口をとるしぐさでしょう。后が実際に糸繰りを行うのではなく、あくまでも御親蚕の儀式としてとりおこなったのでしょう。
    『天照大神が口に繭を含んで糸をひいた』というのも、おそらく御親蚕の儀式の一つではなかったかと思います。その所作は、ちょうど繭から糸を繰るしぐさでもあり、蚕が糸をだす姿のようにもみえるのです。

   日本における御親蚕は、5世紀後半の雄略天皇のときに行われ、その後、明治になって昭憲皇太后が国内の蚕糸業を奨励するために始められました。海外との貿易が始まるなかで、わが国古来の蚕糸業を国の富に育てようと明治4年に吹上御苑内にある瀧の御茶室において始められました。
  当初、その道に知識と経験のある者として渋沢栄一氏がご進講を行いましたが、飼育には自信がなかったので旧知の田島武平をお世話役に推薦しています。武平は女子4名を連れて出仕して飼育を補助し、翌年には上州佐位郡嶋村の田島彌平がお世話役をつとめました。
   その後、一時とぎれることもありましたが、明治12年には英照皇太后が青山御所で養蚕を始められ、大正3年からは紅葉山で貞明皇后、香淳皇后、美智子皇后と歴代の皇后陛下によって御養蚕は引き継がれてきました。
   現在も皇居の紅葉山御養蚕所では、御養蚕始の儀から御給桑、初繭掻き、ご養蚕納めの儀などのご親蚕が雅子皇后さまによって行われています。ちなみに日本では皇后陛下が直接、飼育に携われています。ときに天皇陛下のお手伝いを得ながら。