蚕と絹のあれこれ 19

 燃えた神衣

   神衣(かむみそ)という聞きなれない言葉を耳にしたのは、遷宮祭(せんぐうさい)に奉納する生糸をつくる儀式のときでした。神主が述べる祓(はら)いの言葉のなかにありました。 神衣は神御衣とも書き「かむみそ」とよみます。天照大神が身に着けられる衣のことですが、実際には神前に奉納する絹織物をさしています。神宮では二十年に一度の遷宮祭のほか毎年衣替えの時期に絹と麻の反物を奉納する神衣祭(かむみそまつり)があって、いまも神事は続けられています。
   神衣は天照大神がご自身で織られていたとも、神衣を織る専門の女性たちに織らせていたともいわれています。「神名秘書」という古い書物には、神衣を織る職人の祖先である八千千姫(やちちひめ)が天の香具山(あまのかぐやま)に桑を植え、蚕を飼って糸をとり、その糸で神衣を織っていたとあるので、製織を専門にする女性がいたようです。
  その神衣が、あるとき火事によって神宮の本殿もろとも焼けてしまいました。はるか昔から伝わってきた大切な神衣を焼失したというのです。平安時代に藤原実房(さねふさ)という公家が書いた「愚昧記(ぐまいき)」という日記があり、そこには「1169年に伊勢神宮で火事があり、上古から伝わる神御衣を消失した」と書かれているのです。
   神宮の禰宜(ねぎ)がその報告にやってきたとき、朝廷の公卿(くぎょう)たちは 「疑いなく、くだんの神衣にまちがいない。光沢のある絹織物であったろう。」とか「今回焼失させたことは見過ごすことはできない。」 「禰宜は何という者か」 「経仲と申す男である。男は17年前の遷宮のときにその神御衣を旧殿から新殿に移している」などと口々に話していたようです。
   その焼失した古い神衣とは、どのような織物だったのでしょう。 禰宜の話によると「神御衣は絹のたぐいではなく綿のようであり、色は茜(あかね)で染めたように見え、形は子供の衣被(かづき)のようだった。」とあります。 「綿のよう」とあるのは、今でいう木綿(もめん)のことではありません。木綿が日本に伝わったのは室町時代の後期です。繭を煮て薄く広げて重ねたものが真綿(まわた)です。 「綿のよう」 とは真綿をいったものですが、これがつむぎ糸でも長い年月を経ると毛羽(けば)立って真綿のように見えることがあります。
   「色は茜(あかね)で染めたよう」とあるので赤い色だったのでしょう。赤の染料には茜や蘇芳(すおう)、紅花(べにばな)、コチニ−ル(カイガラムシの一種)などがありますが、茜なら卑弥呼の時代から使われています。
   また「衣被(かづき)」は女性が外出時に顔を隠すため羽織る衣のこと。
   これらのことから燃えた神衣は、光沢のある緻密に織られた高級な絹織物ではなく、繭からつむいだ糸を日本茜で染めて織られた赤く短い衣だったように思われます。
   火事のあと、急ぎ神宮は建て替えられて臨時の式年遷宮が行われ新たな神衣も奉納されています。平安時代には染色や織物技術が高度に発達していたので錦(にしき)や綾(あや)などの神衣も作れたでしょうが、白い生絹(すずし,きぎぬ)の衣でした。大嘗祭に天皇が身に着けられる御祭服は生絹の衣であるように、神様には清楚で無垢な白がお似合いなのでしょう。