折々の記 15 
 芋たき

 秋になって里芋が店先に並び始めた。芋たきの季節を迎え、家でも作りやすいように水煮した芋と煮汁がセットになって売っている。
   芋たきは、大洲盆地を流れる肱川の河原から始まったらしい。江戸時代に河原へ鍋を持ってきてサトイモを煮て食べたのが始まりらしい。

   今では幾つかの料理屋が、河原に所狭しと茣蓙(ござ)を敷き、テーブルをならべて鍋や仕出し料理をおいている。秋の日はつるべ落としのようにすぐ暮れる。その暗がりのなか、頼んだ料理屋の場所を提灯の明かりをたよりに探さねばならない。見当をつけて河原を歩いていくと、すでに客たちは明かりのもとで鍋を囲んでいた。席についてホッとすると、空には月がのぼって河原全体が見渡せるほど明るくなっている。
   鍋の中には里芋のほか鶏肉や油あげ、コンニャク、シイタケが入っている。愛媛でも地域によって少しずつ味つけは違っているが、発祥地の大洲では少し甘めの味つけになっている。

             大洲城下を流れる肱川と河原
  かつて芋たきに参加した俳人の松根東洋城は「芋喰の鍋に俳諧(はいかい)の極みかな」 と大正七年に大洲で催された句会で詠んでいる。河原の芋たきは、肱川大橋の上(かみ)にある河原ではなく、城山の下にある柿の木瀬の河原あたりで行われていたらしい。舟遊びをしてきたのであろう「芋煮えたり 舟捨て上がる 五 六人」という句もある。
 
   秋の風物詩である芋たきは八月下旬から始まるが、この時期に採れる里芋の種類は限られている。石川早生(いしかわわせ)という極早生の品種は終わりに近く、女早生(おんなわせ)という早生の品種は早堀りが始まったところ。端境期にあたる。
   女早生は蓮葉芋(はすばいも)の系統で葉っぱが蓮の葉のように水平につくのが特徴である。里芋の産地である県東部では後背の法皇山脈から瀬戸内海に向かって強いヤマジ風が吹く。里芋特有の大きく垂れた葉っぱなどは吹き飛ばされてしまうので、風の抵抗の少ない蓮の葉のような女早生が選ばれて作られてきた。

       左が女早生で葉の付き方が水平に近い  右は石川早生で葉がやや垂れ気味である 
          
    掘り出した里芋 真ん中が親芋        株を親芋(真ん中)と子芋(左側)、孫芋(右側)に分解
   日本の里芋は、親芋に子芋がついて更に孫芋がつくタイプが多い。店屋では、子芋と孫芋をまぜて袋に入れて売っているが、孫芋の多いものを選ぶといいだろう。孫芋は白くて柔らかく粘りがあるのに対して子芋は煮ると灰色がかり繊維っぽくなる。同じ里芋でも食味は大きく違ってくる。
  里芋は親が栄養を子に与え、子は孫に栄養を与えるため、親はその分栄養を吸い取られてエグ味だけが残ってしまう。親も子も孫に栄養を与えるわけでどちらも脛をかじられているようなものである。それでも親より子、子より孫と数は増えていくので子孫繁栄につながる縁起物として食べられてきた。
  ちなみに、芋たきに最もよい時期はイモ名月といわれる旧暦の八月中旬だろう。新暦でいえば九月中旬あたりの満月の日。ところが里芋の収穫は葉が枯れ始める十月の中旬になる。九月なら孫イモは団子くらいの小ささしかない。イモ名月ではこの小さな孫イモを煮たらしいが、いつの間にか本物の団子にとって変わられている。